久津晃

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久津晃

  久津 晃 
                香月弘子
  
  生と死のあはひの川をゆらゆらと流れてゆけば  宇宙銀鼠           
 この一首は久津さんの最晩年に上梓された歌集の巻頭の歌です。二十歳頃から歌を作り始めたそうですから、中断の十五年を差し引いても五十年余り歌を詠み、多くの後進を育て、歌は如何にあるべきかを模索し、それを実践されました。やさしく辛抱強く導いて頂いた一人として久津さんへの感謝を忘れることはありません。
 初めてお会いしたのは「牙」の復刊の時です。その時久津さんは十五年中断していた歌を再び詠み始められた訳です。二十五歳から十年余りを結核の闘病に費やし生死をさまよう経験を何度もされたとお聞きしましたが、病を克服し税理士事務所の経営を成功させていらっしゃって、歌会は事務所や久津さんの自宅で開いていました。働き盛りの四十七歳。
 その後、数年して山埜井喜美枝さんが福岡市に居を定め、お二人の短歌に寄せる、熱い思いは現実化されてゆきました。そう、それは短歌の世界の閉塞感。例えば結社、小歌会で自足していることへの危機感だったのです。「うたはもとダイアローグ=対話・問答=ではなかったのか」との言挙げも同人誌でなされ、試みられてゆきました。
 七十八年に季刊同人誌「飈」の創刊につづき「筑紫歌壇賞」の新設など(会報四四号の山埜井喜美枝さんの活動に詳しく記載されています。)久津さんのプロデューサーとしての働きは大きかったのではないでしょうか。
 「飈」創刊の頃、久津さんから手紙を頂くわけですが美しい封書に毛筆で宛名が書かれていました。内容は歌会の日時や次号同人誌の締切など連絡事項を風雅な便箋に綺麗な手書き(コピー)でした。これは久津さんから学んだ大切なことの一つです。細やかな心配りは学んでもなかなか 出来ませんが、斯くありたいと手紙を書くときはお手本にしました。
 昭和二年八月十五日生まれの久津晃さんの星は乙女座。ジョークはほとんど言われないのに、とにかく話が面白く、腹をかかえて笑わないではいられないのです。自虐ネタが多く、戦場での話もただ悲惨なだけではなく、生の営みのように感じました。
  呼ぶ声のすでに病めれば美しくまた喪わん人か  と思う              『砂時計』
 戦後、結核療養を長くされる中で詠まれた一首です。妹を同じ結核で亡くされており、信仰、祈りの歌はその後も久津さんの歌のキーワードとなってゆきます。
 生涯に七冊の歌集を上梓し、八十六歳で息を引き取られました。命日は十月十一日。二〇一三年のことです。『宇宙銀鼠』のあとがきより、久津さんの言葉を引いてこの項を終ります。
  「短歌は私の伴侶であり、命である。短歌あっ   ての今日の命と思っている。」
 
【略歴 】
 昭和二年大分生。二十歳位から作歌を始め、「アララギ」「未来」「塔」に所属。十五年作歌を中断したが、昭和四十九年「牙」の復刊に参加。山埜井喜美枝氏等と共に「筑紫歌壇」を創立。三年後同人誌「飈」を創刊。歌集に『宇宙銀鼠』他。
【歌集より抄出十五首】
  あの世でもこの世でもない夜が来てうつつに母  を呼ぶ妻の声         『宇宙銀鼠』
  ほのぼのと壁のおかめの笑ふなり赤子のわれを  抱きし日のごと
  連れ添ひて三十五年針の穴に糸を通すはわが役  目にて
  あつけなく死んだと言はれ死にたかり誰も眠り  てゐる昧爽に        『硝子の麒麟』
  死はときにかがやき生を引き寄する背振りの里  のしろがねの梅
  闇のなか羽を広げて迫りくる孔雀のやうな夜の  都市あり           『孔雀都市』
  血にまみれ泥にまみれし友の首抱きあげんとし  てわれはよろめく      『天使の喇叭』
  何の用ありてか妻が寄りて来て肩に頭を載せて  ゆきたり
  紅葉はた翡翠のいろの木曾信濃あまた死ありて  今日のわが生
  連れ添ひて光の中を歩みゆくかかる一日も老い  のたまもの           『僕と獏』
  街ゆくは遊戯人間透け透けのかぼそき骨に肉を  纏ひて
  いくそたび死の縁近く生きてきて闇につやある  ことも知りたり
  パンにぬる蜜は垂れつつ〈生ける死〉と〈死す  べき生〉の間に落つる     『呿唎賽人』
  老いゆくは神のみならず晩夏の光甲胄のごとく  重しも
  別れなん子を中天へ運びゆく花のうてなの観覧  車見ゆ

木原昭三

木原 昭三
                 大西 晶子(宗像市・コスモス)
 木原昭三さんが亡くなられて八年が過ぎた。木原さんは長く「コスモス」福岡支部の支部長を務められ、会員の指導をされてきた方だ。木原さんが短歌を始めたのは長崎で在学中に当時「多磨」会員だった大野展男さんを訪ねたことに始まる。お二人は後に「コスモス」福岡支部の二本の柱になられた。木原さんの若い時の歌で印象的なのは結核の療養中の歌だ。第一歌集『千羽の鶴』の巻頭の一連には若く肺結核を病み左右の胸郭形成手術を受けるまでが詠まれている。戦後間もない時代の死病、結核を病む木原さんの歌には死と向き合い生命の輝きを見つめる深さがある。その経験を反映し植物、鳥、自然などの歌にも生命への深い共感が読み取れる。闘病の後にも家族の死、就職難などの辛い時期を経て木原さんは熊本県で教師の職に就き、良き伴侶を得られた。その時期には生徒との交流や長女を得た喜びが静かな幸福感をたたえて詠まれている。
 三十五歳で福岡県で教職に就かれ、長男が生まれるがダウン症候群と診断される。『千羽の鶴』の後記に「この重い十字架を背負ったとき、作歌する行為がどれだけ精神の支えとなったか分からない」とある。また教師として師・宮柊二の〈おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ〉を挙げ、「一教師の生き」を遂げようと思うと書かれ、その歌からは誠実に実践された様子が分かる。
 木原さんは熊本出身で,〈肥後もっこす〉を自認する方だった。頑固な一面もお有りだったが、一途さは短歌と師・宮柊二、結社「コスモス」に対してのものでもあった。第二歌集『二次林』では柊二の死が大きなテーマとなり、師の教えを思い師の故郷や歌碑を訪ねる歌が多く収められている。またその一途さで長くコスモス福岡支部を支えられ、朝日カルチャーセンターでは短歌の魅力を広められた。
 もう一つ忘れてはならないのは木原さんがクラシック音楽に造詣が深かったことだ。第三歌集『しらぬひ筑紫』の巻頭には楽曲を詠みこんだ一連「コンチェルト《皇帝》」が置かれている。楽曲そのものも多く詠まれたが、他にも聴覚に関わる歌が多い。鳥の声、自然の音を繊細に詠まれたものはどれもが魅力的だ。
 病むことが多く〈あざなへる縄のごとくに来る禍福~〉と『二次林』で詠まれた木原さんだったが、八十六歳ですい臓癌になられた。亡くなるひと月前にお会いした折に新しい自作の歌を語られていたことが忘れられない。生涯歌人として生きた方だった。
《略歴》
  一九二八年(昭和三年)熊本生。
  一九五一年「多磨」に入会。一九五三年「コス  モス」創刊時に入会。一九七八年コスモス短歌  会O先生賞受賞。一九八二年第一歌集『千羽の  鶴』出版。一九九〇年「コスモス賞」受賞。一  九九六年第二歌集『二次林』出版。一九九八年  第二八回福岡市文学賞受賞。一九九九~二〇〇  二年と二〇〇五~二〇〇六年福岡市歌人会会長  を務める。二〇一一年『しらぬひ筑紫』出版。
  二〇一四年八月三十一日永眠。
〈作品十五首抄〉
  鐘のごと幻聴ひびくこの夜半のふかく静けし病  棟の闇            『千羽の鶴』
  黒板をわが拭きゆくにきらきらとチョークの粉  の微塵かがやく
  病める子にかがやく未来願はねど生は楽しと思  はしめ給へ     
  知恵薄き幼はわが家の宝とぞ言へばうなづく妻  も少女も
  草の間をくぐりて沼に流れ入る音のかすかにひ  とすぢの水
  冬の雨注ぐ荒田に打ち乱れ啼く鶴が音は天にひ  びかふ
  類型の生活にひとは従へど千の家には千のかな  しみ
  口すこし開けて眠れる少年の顔まさびしき「弱  法師」に似て           『二次林』
  鉈を振り面の木取りなす妻の流汗淋漓は寄りが  たく見ゆ
  二次林の若葉照り合ふ下かげをゆく少年ようぐ  ひす真似て
  遺されし生の証の楽譜より絢爛と鳴るコンチェ  ルト《皇帝》       『しらぬひ筑紫』
  みどりごの這ひてちかづくその声を頻伽のこゑ  と瞑りつつ待つ
  愚かしき形と思ひうつくしきかたちとも思ふ   ものを聞く耳
  しらぬひ筑紫の山の若みどり瀬戸を隔てて見れ  ばうるはし
  明け放つ雨戸の音にさきはひの響きこもると妻  がふと言ふ      『しらぬひ筑紫』以降

小島恒久

小島 恒久   
            篠原 信子
  講義初めに被爆者体験を語るのを慣ひとし  来て四十年過ぐ
 小島氏は長崎高等商業学校(現長崎大学経済学部)時代、十八歳で被爆し、この被爆体験がその後の生き方の原点をなしている。市は九州大学経済学部卒業後、同大学院及びその後の研究を向坂逸郎教授に師事し、教授の許で三井三池の炭鉱大争議の組合活動を現場で支援している。この活動は市の人生に深く関わり、被爆体験と共に反戦、平和、人権への思いを強くした。
 定年後、中断していた作歌活動を始め、「アララギ』「リゲル」に再入会し本格的に歌に取り組むようになった。講演や会議に出かけることも多く、その都度「人間の罪」に対する告発と鎮魂の思いから「戦争や人権問題」に関わりの深い地を訪ね歌に詠んでいる。社会の繁栄の陰に潜む様々な問題を問い、その「ひずみ」に正面から立ち向かうことを使命とする姿勢は生涯変わらなかった。
 氏は研究者として、社会活動家として多くの業績を残され、著作も多い。度々の留学や国の内外を問わぬ史跡の訪問など、多岐に亘る分野の見識、造詣の深さに私たちは多くを教えられた。しかし、自ら研究や活動について話されることは無く、歌会後の喫茶店の団欒を何より楽しまれていたように思う。帰路には必ずデパ地下に寄り奥様に一品買われていた。常に謙虚で親しみ深く、やさしい先輩だった。
 歌は写実に徹し、実証主義が徹底したリアリズムの手法に詠まれていて、一首一首に込められた「叫び」は読む者に迫ってくる。最後に、第一歌集『原子野』の「あとがき」を紹介し筆を擱きたい。「社会詠、時事詠は、ともすれば難解になりがちだし、叙情性に欠ける憾みをもつことになる。だが、それをあえてしても私は、現に生きつつある今の時代を歌い、そこに生きる私の思いを伝えたいと思った。」
「略歴」
一九二六(大正十五)佐賀県武雄生。十八歳から作歌を始め、二十一歳で「アララギ」「リゲル」に入会。
一九七一 九州大学教授・一九八九(七十歳)より名誉教授等を歴任。研究生活の多忙に四十三年間中断していた作歌を再開し、「アララギ」「リゲル」に再入会。
二〇〇六(八十歳)福岡市文学賞受賞。
二〇〇九から十四福岡県歌人会会長就任、その後顧問
二〇一九(九十三歳)永眠 正四位 歌集三冊
  友探し原子野さまよふわが傍を屍積むリヤ  カーいくつか過ぎき      『原子野』
  友さがし探しえざりし原子野にあきつ飛び  ゐき幻のごと
  被爆地より還りし襤褸の吾を抱きし母の腕  の温み忘れず
  記憶失せしCO患者が炭住跡にハモニカにて  吹く「炭掘る仲間」
  組合旗涙して燃し三池労組今日解散す十四  名なり
  クビ守る三池争議の日は遠くリストラ荒べ  ど声なき労組よ
  沖縄人の戦の痛み忘るなとゴーヤは苦し那  覇の夜店に
  妻と子をかへりみるなく書に埋もれ過ぎし  一生に何をなし得し
  被爆死の友らは永久に若くして傘寿の宴の  壇上に笑む         『晩禱』
  子規あらば「与ふる書」をまた書きゐむか  花壇にはびこる浮華を嘆きて
  エノラ・ゲイと機に母の名をつけし機長の  無恥を許さず被爆者われは
  水俣病確認されしより五十年訪ひ来し首相  は一人だになし
  民の飢ゑを救うふと医の君井戸を掘る戦火  の絶えぬアフガンの野に 中村哲氏
  われら育て母が守りし割烹が人手に渡り今  日毀たるる
  茂吉文明連れ立ち訪ひし日を偲ぶ秋草露け  き鳴滝塾跡         『曙光』
  シルバー学級とはいへ吾より若きが多し気  負ひて講じほとほと疲る
  師も母も米寿の壁を越え得ざりしに越えて  永らふ被爆者われが
  われの身に原爆浴びし体験がいかなる理路  より反戦となる
  段なして老はすすむか去年できしことが今  年はできずくやしむ 絶詠
 

中本吉昭

中本 吉昭
                         中本 昭恵
 〈略歴〉
一九四〇年 北九州市戸畑区生
一九六〇年から二〇〇〇年 (株)安川電機勤務
一九六二年 「未来」入会
一九七四年 「牙」創刊時に入会
一九八一年 第一歌集『鉄扉』上梓
一九八六年 兵庫県歌人クラブ賞受賞
一九九二年 第二歌集『噴水』上梓
一九九七年 「現代短歌」第十回歌人賞次席
一九九八年 「歌壇」第九回歌壇賞最終候補
二〇〇三年 第三歌集『柔らかき椅子』上梓
二〇一二年 「牙」終刊により「高嶺」に入会
二〇一四年 第四歌集『整体院旦暮』上梓
二〇一五年~二〇一九年 福岡県歌人会会長就任
二〇一七年 「高嶺」終刊により「朱竹」入会
二〇一九年六月五日 急性リンパ性白血病にて永眠
 中本吉昭の略歴を記してみると、彼の一生は短歌と共にあったと改めて思う。第一歌集『鉄扉』よりその歩みをたどってみたい。
▽安川電機行橋工場勤務。
  引込線右へ右へとのびゆきてとどまるところ製品  発送場
  天窓より入りくる光限りなしわが作業場に埃立ち  つつ
▽営業マンとして大阪に赴任。
  自らの志さえひっくるめもの売るなどと言うなた  やすく
  ユーザーに会いにゆく朝荒れている心に芝を踏み  つつ行くも
▽やがて香川県高松市に赴任。販路を開いてゆく。
  今ひとたび訪ね来るゆえ眼前の鉄扉夏日に輝きて  いよ
  干魚を火に焙りつつ妻に告ぐ販路の果の辛き部分  を
  枯れ急ぐ冬の販路を搔きならす靴一足を選びかね  つも
▽再び大阪へ赴任。妻と長女長男を伴いつつ。
  欠刻のからくれないを胸に抱き連絡船に別れきた  りつ
  親よりも重き故郷とならざるか浪花言葉に子はあ  そびおり
▽城のある町姫路市へ。初の姫路駐在事務所設立。
  ここはどこここはどこぞと問える子を背負いて姫  路の町に着きたり
  紙の花いち輪壺になげこみし妻の心のひびくごと  しも
▽姫路十三年間在住の間、多くの歌を作り多くの歌人と出会った。これより第二歌集『噴水』へつづく。
  ヘラクレス戦士の像のかなしけれ引き絞りたる弓  に弦なし
  水枯れし夏の河原のあかつきを烏は飛べりかかと  啾きつつ
  ひと掬いずつ暗黒を掘り起すショベルカー見ゆ冬  の光りに
▽第三歌集『柔らかき椅子』のあとがきに「四十年間のサラリーマン生活と平行して短歌を作ってきたことになり、時には、職場の中に見る分身であり又、没個性を余儀なくされる嘆きであったり、自分を見失うまいとして懸命に作ってきたものであり感慨深いものがある」と記している。「現代短歌」歌人賞次席の歌も「歌壇」賞最終候補の歌もこの集におさめられており、ある意味充実した歌集だと言える。
  ロボットの指さす彼方何もなき空と思えど目には  やさしも
  ロボットを一匹二匹と数えつつトラックに積む若  きらのあり
  組み立てるパッキンケースに思わざる小さき闇が  宿りているも
  鉄板の切屑ばかり呑み込める集塵機見ゆ職場の隅  に
  拙なきは拙なきままに書き記す会議議事録われの  ものなり
  現場よりたずね来たりし事務室にああ柔らかき椅  子の形態
  いつわりなき命の壺と思うらく仕事の後の身体大  切
 六十歳で安川電機を定年退職した後、ライフワークとして好きだった整体師の道を歩き始め、第四歌集『整体院旦暮』を上梓した。  
  いち日の施術を終えて擦りおり未だほてりを保  つ手の平
  ホチキスの空打ちしたる音のしてああ寂しさは  手元に残る
  さしあたり点滴おえて息つける個室ベッドとい  う生きどころ
  彼が逝ってもうすぐ四回目の春が来る。

池田富三

  池田 富三  内藤 賢司(八女市・歩行)
●略歴から
 明治四四年(1911年)福岡県築上郡椎田町に生まれる。本名は富蔵。東洋大学文学部国文科卒業。「ポトナム短歌会」に所属。福岡教育大学教授(退官後は名誉教授)。『源俊頼の研究』で文学博士の学位を受ける。
 教育大学退官後、梅光女学院大学に勤務。昭和三〇年に「標土短歌会」を創設。短歌誌「標土」を月刊誌として発行。歌集に『単色の季』、『防風林』、『池田富三歌集』がある。
 平成八年死去。享年八四。
 氏は、大学の教師であり、古典文学の研究者であり、短歌への情熱を燃やした方であった。短歌の実践面では、地方歌壇の活性化を目指し、行橋市から「標土」という月刊誌を発行し続けた。
 ここでは、二つの歌集を紹介する。
●第一歌集『単色の季』
 昭和三七年、五月書房刊。氏五七歳時のものである。
  いつまでも野につながれて草をはむ淋しくないか  この赤い牛
  これまでのことみな茫漠と過ぎゆきぬわれにはす  べて単色の季
  疲るればまた戦ひの夢を見る長き戦後になほ砲牽  きて
  遮断機のあがりきるまで待たさるる菜の花匂ふい  つもこの場所
  病む妻と娘を残し征きし日の傷手は誰も知りてく  れるな
  みづからの傷に刺されて佇つ丘の雪散乱と吾を埋  めよ
  妻の手のぬくみまだある鎌の柄を握り研ぎゆく畦  にしやがみて
  曲がり角になりて見えくるわが家の窓の方形に心  救わる
「たとえて言えば、この集は、太陽のぎらぎら照る明るい真夏の色ではなくて、常に沈んで紺青を湛えている冬の海の色とでも言えようか。それは、私自身の戦後に生きてきた姿勢ばかりでなく、同時に戦争中に負うたもろもろの人間の不幸に直面した心の痛手の連続のゆえからであろうか」と「あとがき」にある。このように、本歌集には「心の痛手」を形象化した作品が多い。このことは、人を信じてやまない氏の心の優しさを証しているとも言えるのではないだろうか。
 情景を詠んだ「遮断機のあがりきるまで待たさるる菜の花匂ふいつもこの場所」は、集中の代表作だと思う。氏の柔らかく匂うような抒情がここにはある。
●第二歌集『防風林』
 昭和四六年、北九州市の博文館から上梓されている。氏六〇歳。氏の還暦を祝って「標土短歌会」の会員によって刊行されたものである。
  苦しみの日も永かりき学位論文の終章結べば涙垂  れくる
  信じられぬことはさびしく野の風に頬ひりひりと  乾きてゆけり
  陽炎の燃ゆる野道に入りゆく丘のぶどうは熟れて  むらさき
  童顔のまま君も死にゆけり崩壊期日本の軍閥の部  下
  忙しきひと日そのまま見るごとき形にぬぎし妻の  足袋あり
  ふるさとの防風林をわたる風今も昔のままに聞く  音
  佐世保に行つても怪我はするなとくり返し研究室  に言いて別れぬ
  小さき誌にも命削りてすごし来ぬひとりひとりの  生活も思い
  教育の内容にまで立ち入りて教員の手足もぎとる  むごさ
 氏の作歌上の信条は「ポトナムの現実的新抒情主義」で、これは、現実生活に立脚した新しい抒情を模索しようとするものであった。本歌集には、大学紛争や、中教審答申に対する抵抗への思いなど、時代に向き合った作品もある。大学教師として、また真摯な学者として生きてきた軌跡、生活者としての思いなどが、まさに現実生活に立脚した抒情として生き生きと詠み込まれている。
●氏との交流から
 氏は、私の福岡教育大学時代の恩師であった。卒論の指導と短歌を通して深く交流していただいたのである。氏の存在なくして、私の短歌は始まらなかっただろうし継続もなかっただろう。私は、氏の主宰される「標土」の一会員となって短歌を学ばせていただいた。
氏は、私たち学生との交流も大切にして下さり、飲み会などにもよくつき合っていただいた。
 私には忘れられない思い出がある。あれは私たちの卒業式の日であった。卒業が出来なかった私を励まそうという思いからであっただろうか、私の下宿へおいでいただき、一夜を共にして下さったのである。この氏の恩情を、私は忘れることができない。

大野展男

 大野 展男
       池野 京子(福岡市・コスモス)
①略歴(「コスモス」二〇一四年十月号より抜粋)
大正十三年(一九二四年) 山口県萩市に生まれる
昭和十八年(一九四三年) 十九歳「多磨」入会
昭和二十一年二十二歳 山口県大洋漁業定地漁業部  から五島勤務。島内の短歌グループを知り真摯  に励む。
昭和二十五年 長崎勤務、地元若手、木原昭三氏ら  を誘い「金曜会」を作る。
昭和二十七年 太田桂子と結婚
昭和二十八年 コスモス創刊と共に入会。十一月長  男斉誕生。のちに次男耕太郎、長女英子誕生。
昭和三十一年 長男斉水死。自ら願い三重県尾鷲へ  転勤。その後長崎、福岡、鹿児島と転勤。
昭和五十五年 大洋漁業退社。 藤岡食鶏経営参画  六十四歳であった。
昭和六十三年 第三十五回コスモス賞受賞
平成三年(一九九一年) 藤岡食鶏経営譲渡 
平成五年 朝日カルチャー短歌教室講師 
平成六年 歌集『鰤とブロイラー』上梓。福岡市文  学賞受賞 宗像大社短歌大会選者
平成九年 コスモス選者就任
平成十一年 福岡市歌人会理事 福岡市文学賞選考  委員
平成十三年から平成十七年 福岡市歌人会会長
平成二十一年 脳幹梗塞により入院
平成二十二年 コスモス選者及び朝日カルチャ講師  退任
平成二十六年 呼吸不全により永眠
②歌集『鰤とブロイラー』について
 略歴のように大野展男氏が歌詠みになられた動機は分らないが、お若いころからまるで歌人として生まれられたように、短歌のグループを作りリーダーとして活躍しておられたようである。『鰤とブロイラー』は大野展男氏の唯一の歌集で昭和二十一年から四十三年までの三八八首と、昭和四十九年から平成四年までの五一五首計九〇三首を収める。
  砂浜に並べられたる鰤どれも泪ぐみたる目玉を  持てり                                  『鰤とブロイラー』
  帰りきて抱きてやるに水呑みし体硬直しまこと  死にたり        
  務めより戻りし吾は抜け殻の父ゆゑ頼りにする  なと言へり
  金借りて出したる賞与不満としやめてゆきたる  一人を憎む
  魂胆のあるやも知れず父の日に「素敵なパパ」  と娘は書き寄越す
  夏期手当支給せし日は早く帰り山西省読まむ柊  二に触れむ
  額に汗し得し金以外信ぜぬと言へば黙しぬ株勧  誘員
  頸動脈切りては鶏を殺めるに全身血だるまとな  るころ終る
  この橋をゆけば人手に渡したる工場のあり風の  鳴る橋
  魚野川離れがたくて宿る夜を川瀬の音をつつみ  雨降る       『鰤とブロイラー』以降
  見る視る観るは違ふと己に言ふごとく板書し今  日の講義はじめる
  七人が寄れば七つの色となりをみなは大きあぢ  さゐの花
  一切放下出来る筈なし出来ぬゆゑこの世は楽し  なあ春の風
  ちちろ早鳴きゐることを娘と話し頭と背中洗は  れてをり
 『鰤とブロイラー』が出版されると短歌の新聞や雑誌などに批評が集まった。批評には「おとこ世界のうた」というのが多く、漁船で働く男たちの仕事とブロイラーの工場を経営された苦悩と生きざまが詠はれ、作者の青年期から壮年期の終りに到る半世紀が凝縮されていて「内容の重い」歌集であると言われた。私はその上、歌の恩師、家族や生き物に対する愛が「詩」となって最初から最後まで貫かれている内容の濃い歌集となっていると思う。
 ③歌の指導者として
 私たちは大野展男先生に十五年間ご指導頂いた。講座の後や歌会後のお茶会にもお付き合い頂き皆さんと雑談するのを楽しみにしておられた。
 私事であるが、私が八十歳を期に第二歌集を思い立った時は「目眩みがあってもあなたの歌は見てあげたい」と熱心に言ってくださったが、体調を崩され選者も辞めておられたので、選を断念され残念であった。ゆくりなく第二歌集『清水湧き継ぐ』で市民文学賞を受賞した時は、電話で祝福して下さり感激した。
 少しでも大野先生に近づく歌人になりたいと思うが、なかなか難しい。

菊池剣

 菊池 剣  
    み霊がつなぐ「やまなみ」一〇〇〇号
        樋口 洋子(八女市・やまなみ)
 短歌結社「やまなみ」を創刊した菊池剣は明治二十六年一月二十五日福岡県瀬高町にて出生。本名は松尾謙三。
 大正三年に陸軍士官学校を卒業し静岡連隊に入隊。既に軍人歌人として知られていた斎藤瀏の作歌活動に誘発され、大正五年には「竹柏会」に入会して本格的に歌を詠み始めた。
 大正七年には「国民文学」に入会して、半田良平に師事している。
 昭和十年、長崎県師範学校の配属将校となり長崎に赴任。勤務の傍ら短歌結社「山脈社」を創設。この時教えを受けた生徒と共に「やまなみ」を創刊した。
 戦後は「やまなみ」を復刊させ、地方歌誌尊重論を掲げた。「地方にじっくりと腰を据え地方民衆とともに呼吸し生活するのでなければ真の指導はできない。地方歌人は自分の手で編む自分の雑誌がほしいのである」と述べ、自らの手で地方文化の向上を図りたいとの意欲と信念を明らかにしている。また、「短歌は態度の文芸である。生活を深めて客観に徹せよ」と指導した。
 戦後は、妻の郷里である八女郡黒木町に帰還し、生活のため農耕に従事する傍ら、妻の実家である酒造業の役員などをつとめた。 歌集に「道芝」、「白芙蓉」、「芥火」、「黒木」がある。
 
第一歌集 「道芝」
  さむざむと時雨に濡れて濠を掘る兵士はものを言  はざりにけり
  水飲むと列を離るる兵卒を叱らむとして心惑ひき
  故郷と同じ音になくこほろぎのひとつの声を兵と  ききをり
  富士の山すでにかげりて夕焼くる雲はそがひの空  をうごかず
  ほそぼそとうねり流るる河水に朝はしろく霧立ち  にけり
第二歌集 「白芙蓉」
  隣り人向ひ人らに馬の上ゆ父が落ちしとふれまは  る子よ
  母の骨拾ふわが子の幼くてあやまり拾ふ灰まぶれ  の石
  朝寝せる父の臥床にその小さき枕かかへて入り来  もよ子は
  馬の上に吾はかたじけな兵卒が提灯かかげ水を渉  らす
  馬の上にわが見て通る道のへの桑の芽赤くほぐれ  むとする
第三歌集 「芥火」
  これの世にえにしをもちていもうとと嘗て呼びし  をいま妻とよぶ
  戦場に命死にたるつはものの家のくらしはおほか  た貧し
  冬山にさへぎられたる朝日かげいま街並の一角に  さす
  鈴蘭の押花出でぬ満州の兵が寄せくる歌稿の中よ  り
  朝光のおだしきなかに咲き垂りて藤の八千房さゆ  らぎもせず
第四歌集 「黒木」
  くろぐろと立つ岩壁を背に負ひすがしかるべし八  女の青石
  歌碑の背の削ぎ立つ岩に咲く野菊おのづからなる  懸崖をなす
  無影灯の下に全裸のうつそみを幾度曝さば癒えむ  病か
  帰りおそき妻を待ちをり両の手の結び開きをした  りなどして
  おのもおのもわが手にふれて歩みつぐ亡き友のあ  り又うからあり
 彼の平明温雅を特徴とする作歌姿勢は今日まで「やまなみ」に脈々と受け継がれている。現在も毎月発行している「やまなみ誌」は昭和十年の創刊から、令和六年七月号で一〇〇〇号を重ねた。
 本年、令和六年八月二十五・六日の二日間、長崎県諫早市で開催された「やまなみ一〇〇〇号記念全国大会」では、記念シンポジウムとして「短歌のたのしみ」をテーマに、歌人の阿木津英氏、笹川諒氏、山下翔氏の三名によるパネルディスカッションが行われ、盛会のうちに幕を閉じた。
 菊池剣のご命日は昭和五十二年九月二十九日。歌碑は、菩提寺の「宗眞寺」へと続く小径の途中、小さな川の流れを前にした築山公園の入り口に建っている。 
 恒例の「冬山忌碑前祭」は、九月最終日曜日に歌碑苑にて、黒木町文化連盟主催のもと毎年開催されている。

片桐伊作

 片桐 伊作
       中村 仁彦(宗像市・コスモス)
 片桐伊作のことは大牟田の西山博幸さんが詳しい。西山さんは昨年の短歌大会のねんりん大会会長賞の受賞者でもあり、原稿をお願いしたけれども、返ってきたのは逝去の知らせ。茫然としてしまったが、以前西山さんが片桐さんとの交流を生き生きと話しておられたのを知っているので、お弔いのためにも何とか歌人片桐伊作の足跡を残そうと思う。資料も不十分で行き届かないが、労働者の立場でもがきながら歌を続け、コスモス短歌会の選者にもなった片桐伊作を紹介する。
 片桐伊作は 一九二〇年(大正九年)福岡県八女郡白木村(現八女市)に生まれた。一九三九年に八女工業高校を卒業後、住友金属に入社。一九四〇年「多磨」に入会、一九四四年応召、一九四五年復員。三池染料大牟田工業所に入社後、一九五〇年に退職、紙芝居業を始める。多磨には時折投稿していたが、一九四七年大牟田の永見氏らの多磨歌会に出るようになって歌ができるようになる。一九五三年コスモスの発足と同時に入会。一九五四年第一回コスモス賞受賞。一九六一年から六八年まで七年間歌作中断。その間に井上キミエと結婚、長男研史を授かる。その後歌作に励む傍ら、熊本、柳川勉強会、コスモス佐賀支部での指導に携わる。一九八一年にコスモスの選者となり、一九九一年七十一歳で逝去するまで務める。一九八六年柳川の宮柊二の歌碑建立に寄与する。歌集に『転』と『極』(遺歌集)がある。
 第一回のコスモス賞受賞に際し、宮柊二から「もう一歩広い深い発想の場を」開くように示唆されている。氏は、「より深くより広い「意味」をもつ歌、重苦しい同時代に生きる人々の間に、より深くより広く共感と喜びを呼び起こすやうな歌、そんな歌のできる人間を作り上げる。」と決意をする。しかし、氏は受賞から七年後歌作を中断する。中断の理由は判然としないが、当時携わっていた労働運動が影響しているかもしれない。
 第一歌集『転』は、一九八三年のコスモス全国大会で宮柊二から出せと言われて準備を始めたそうである。しかし、宮柊二の死去により直接目を通してもらうことがかなわなかった。この歌集は二部に分かれている。一部は、コスモス創刊から中断まで、二部は歌に復帰してから町工場を退くまでとなっている。前半は「歌はどうしてもやめねばならない、しかしやめきれぬという矛盾」に苦しんだ時期、後半は「激しい労働のために肉体的に苦しんだ時期」であるとあとがきに書いている。
 第二歌集『極』は遺歌集で、柳川勉強会の力添えを得て妻が出版。「多磨」時代の歌と、『転』以降の歌を収めている。八女郡星野村の 懐良親王を詠んだ歌など、密度の濃い歌集である。
 以上は、集めた文献からの引用である。これだけではあまりに無味乾燥なので、五十年前の片桐伊作を知る吉里幸雄氏に思い出を書いてもらった『伊作さんの思い出』の一部を抜粋して、筆を置く。
 片桐さんの歌は、わかりやすい言葉で詠まれている。常々「歌は一読して分かることが大切だ」と若い歌仲間に訓得てくださった。
  ありふれし言葉ことばがきよらかに響き合ふ歌  を欲してやまず (コスモス一九七一年五月)
 この歌は片桐さん自身の覚悟の歌だったのではないだろうか。
  更けゆきしキャンプの夜にて木の枝に緊りてき  よき蠟の灯光る           『転』
 ある夜のこと、片桐さんの部屋を訪ねた時、部屋は真っ暗ーふと見ると庭の楓の樹の股にろうそくを灯してその光りを見詰めておられた。それはキャンプの時の蠟の光りの実感をたしかめながら歌の遂行をされていたのだった。     (吉里幸雄)
  文通をわれはせざりき作品の 他にては己を語  らざらむ              『転』  岡の上の白き建物に蛇行しつつ徐々に確かにデ  モ迫りゆく
  退けどきの歩道に向けて紙芝居演じ終れり熱堪  へつつ
  白き卵腹にかかへて平べたく 夜の畳に来てを  りし蜘蛛
  自転車に乗せてくだるに坂とほく落つる夕日を  子はまぶしがる
  兵といふ一つ鋳型にはまらざる部分を持ちてみ  な兵たりき
  しやがの花咲きむらがりて立ちこむるさ霧のな  かに明るさ保つ           『極』
  紅顕ちてどこかさびしきみちのくの盛りの花を  車窓に見放く
  突き当りの鏡に映る夜の廊下孤影小軀のわが歩  みくる
  白桃を指に剥きをりたいせつに携へて来て夜警  にひとり
  吹雪く日のくらき波より新しき波起ちあがり重  なり寄せ来
  ゆつたりと暮せるならば歌などは要らないでせ  うと涼しげに妻

山本詞

山本 詞  (前編)
      松本 千恵乃(福岡市・未来)
 有名歌人と言われていなくとも、福岡県という地方にも優れた歌人はたくさんいた。歳月を経てますます人々の記憶から消えていくのが残念でならない。
たまたま時代が悪かった、たまたま貧困であった、たまたま学校に行けなかった、たまたま結核の多い時代であった、病があった、などの運命がある。
しかし、その中で短歌に出会い、真剣に生き甲斐として、死の間際まで研鑽を積み、優れた歌を残した歌人は多くいる。特に、病や貧困に苦しみ若くして亡くなった県内の歌人たちを埋もれたままにはできない思いである。その一人として山本詞を挙げたい。
「◯◯歌人」という括りではなく一人の歌人として。
 山本詞の歌をお読みいただければ、人物もその背景も苦しみも、ほとんどお分かりいただけると思う。
この文章は歌を詠まれる方々へ向けた文章であるので、とにかくまずは歌をお読みいただきたい。  作者が思いの丈をこめて詠んだ歌であるからして、先入観の入るであろう略歴は私としては後にしたい。
  硬山を仰ぐときやはり坑夫らの歴史は坑夫が変  へねばと思ふ
  予告なく来る死もあらむ明日のため香を焚く思  ひにあらふ坑帽
  炭住の空に泳がす鯉のぼりの幾つかは坑夫継が  む子らのもの
  男勝りの鉱夫と母は言われ来し手をとれば石炭  に触れ居る如し
  身を避けて発破続けし坑内に匂ひゐし黴の花白  かりき
  この地底より遂に遁れ得ぬ生活と思ふとき親し  黴匂ふ坑も
  弟のため婚期過ぎしと聞きてより婦長を吾は憎  まずなりぬ
  風化岩咄嗟に崩れ落ちし坑よ父を押しのけて逃  れし日もあり
  即死坑夫を積みきし炭車忽ちに長き連結の中に  まぎるる
  即死坑夫の束の間の匂ひ筵よりはみ出して髪の  ポマードは放つ
  落盤に埋もれて死にし今日の坑夫空弁当をひと  つ残して
 これらの歌に何の解説が要るだろうか。  
 山本詞は昭和五年三月三日に福岡県田川郡の明治鉱業の炭鉱住宅で生まれた。両親と三男三女の八人家族。詞は長男で、上には姉が一人いる構成である。
昭和十一年四月糸田尋常小学校に入学する。その後、
勝野尋常小学校に転校、目尾尋常小学校に転校する。
昭和十七年三月に目尾尋常小学校卒業。
炭鉱不況の影響で父は低給料、母は土方仕事に行く。
昭和十七年四月、福岡県立鞍手中学校に進学する。昭和二十年、詞は予科練を志願して十五歳で前原航空隊に入隊するも、終戦で除隊。
昭和二十一年に鞍手中学校卒業する。
四月に古河目尾鉱山に保坑夫として就職。
十七歳から父の後山(あとやま)として坑内に下る。
(家計のため坑夫となったのである。姉に詞は二十歳からは勉強してできれば教職にと言っている)
十八歳のとき、姉が結核を発病する。
二十三歳のとき、父が目尾炭鉱を停年で退職した。
(父は退職後近くの小竹炭鉱に再就職したとはいえ、
詞が一家の生活を支えなくてはならなくなった。)
そういう時に今度は詞が、二十四歳を迎えた誕生日
の翌朝に吐血して結核を発病した。
実はこの三月三日の誕生日に詞は友人十人くらいを
自宅に招いて宴を開いたのだが、つらい労働の間に
かねて勉強していた国家試験の「発破有資格者証」
の合格祝も兼ねていたのだった。発破係になれば職
員待遇になるため給料も多くなるのだった。しかし、
詞がその資格証を手にしたのが豊津療養所に入院す
る前日だったという。姉のすみえが、詞が涙を流し
て悔しがったと言っている。十代で坑内に入り、命
を張って生きてきた詞は深く悲しんだまま入院した。
  死ね死ねとくづほるるまでに踏みてをり夜の病
  室に蜘蛛のいのちを
  夏痩を言ひつつ体重計にのる面会の母の髪うす
  かりし
二十五歳のとき一時退院するが、再度入院する。
働き手である長男の結核で経済的に苦しくなった。
だが、詞はこの結核療養所時代に短歌を始め、療養
中の手島さかえという生涯の恋人と出会う。
 詞は短歌を二十五歳から六年程詠み、昭和三十七
年三月三十一日に目尾炭鉱の坑内の炭車事故により
三十二歳で没した。無口な人物であったらしい。
亡くなる二カ月前には石田比呂志らと「牙」を創刊
している。亡くなってまもなく遺歌集と遺稿集が出
版された。昭和六十年に『定本山本詞歌集』が編集
され、一三〇〇余首が収められている。詞の短歌や
恋人とのことはまたいつの日か機会があれば後編に。

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